まるでカーテンだった。
一点の曇りもないはずだった青空。それが、ある一線を境に、黒く染まり、叩きつけるような雨を降らせていたのだ。
その水のカーテンを、私達は潜った。車輪が道を走る音が、車体に雨が叩きつけられる音にかき消される。
日の光もなくなり、辺りは暗く、景色は雨で霞んでいく。
あまりにも変わった景色に、私達は窓を閉めるのも忘れて呆然としていた。
馬車を宿屋の指定の場所に停める。
屋根がある場所だったが、水が浸透していて、地面はぐちゃぐちゃだった。
マスターさんが一足先に、宿屋に入っていった。しばらくして、マスターさんが戻ってきて、部屋が取れたことを教えてくれた。
雨に濡れないように、私達は屋根伝いに宿に入った。
「あらあらあら、こんな時に大変でしたでしょう! さ、どうぞ!」
恰幅のいいおばさんが、大きいタオルを数枚持って出迎えてくれた。この宿の人のようだ。
渡されたタオルを、ありがたく使う。ここに来るまで、屋根のある馬車だったが、窓を開けっ放しにしていたので、結構濡れていた。
「ああ、私は結構。それより、話を聞かせてもらえないでしょうか」
マスターさんは差し出されたタオルを断って、そう言った。
そういえばマスターさん、屋根のない外にいてずっと馬を操っていたのに、全く濡れていない。……これも魔術の恩恵なのだろうか。
マスターさんは続ける。
「この雨、自然のものとは到底思えません。このあたりの魔力も、どこかおかしい……」
「『カミ』が怯えてるんだそうでさァ」
と、奥から、これまた恰幅のいい、髭を蓄えたおじさんが出てきた。どうやら、おばさんの旦那さんのようだ。
「この辺りには、『カミ』がいるんですがね、長老の話だと、怯えて魔力がうまく操作できていないだとか……」
「やはり、そうですか」
おじさんの話に、マスターさんはもとより、ロキさんもブエルさんも納得したような顔だった。
『カミ』というのは、細かく言うと、「精霊」とか「天使」とか「悪魔」なんて言われている……私達とは違う世界に住んでいる住人のことだ。
違う世界といっても、この世界とは表裏一体。入口はそこらへんにある。昔からこの世界の住人と向こうの住人は、持ちつ持たれつの関係で、身近な存在だった。こちらの世界の豊かな魔力を捧げる代わりに、あちらの強力な力を使える。
この辺りはうちの村にも近いから、『カミ』のことは知っている。確か、雨を自在に降らせることができるはずだ。乾期が訪れた時に、雨を降らせてもらうよう、お参りをしに来たことがある。
しかし、『カミ』は強大な力を持つ。そんな凄い存在が、一体何に怯えているというのだろう。
「申し訳ないが、その長老様に会わせてもらえないだろうか。『カミ』について話を聞きたい」
と、マスターさんがおじさんに申し入れた。
それに、おじさんが怪訝そうな顔をする。
「それまた何でだい、お客さん。『カミ』の異変は、地元民でどうにかする。悪いが、余所モンが出る幕はないぜ」
「余所者、ではないさ。種族は違えど、同胞のことだからね」
「同胞って……」
おじさんがそれ以上何かを言う前に、マスターさんは、私達から数歩離れた。
そして、一呼吸おいた、と思った瞬間。
マスターさんが、光に覆われた。
強い光に、思わず目を瞑る。
しかし、光はすぐに治まる。恐る恐る、目を開けた。
「?!」
私と、宿のおじさんおばさんの反応は、同じだった。
目を開けた時、マスターさんに、信じられないものがくっついていた。
手には鋭い爪が伸びており、頭には白い角が二本生えている。そして背には、大きな羽。
それは、異形の姿。
しかし、マスターさんはまた光に包まれて、その姿はいつものものに戻ってしまった。
まるで、異形の姿は嘘だったように。
「見てもらって、わかったと思うが、私も『カミ』だ」
だが、マスターさんの言葉が、嘘ではないという。
あまりの事実に、しばらく何も出てこなかった。
だって、『カミ』は身近な存在とはいえ、違う世界の住人。こちらの世界の人間からは、親しみと同時に敬われる存在だ。
まさかこんな近くに、それがいたなんて……!
「はぁ〜、こりゃたまげた! こっちに常にいる『カミ』がいるって話は聞いたことあるけど、まさかこの目で見るなんて!」
おばさんが目を見開いて、そう感想を述べた。正直、私も同じ心境だ。
「兎に角、何故私の同胞が、このように魔力がうまく操れないほどの事態に陥っているのか、放っておくことはできない」
マスターさんの言葉に、おじさんが頷いた。
「わかった。長老んとこに連れていく。長老は村唯一の魔術師で、『カミ』には詳しいかんな」
「ありがとう」
お礼を言ったマスターさんは、私の方に向き直った。
マスターさんは、さっきまでの真剣な顔とは打って変わって、少し弱々しく言った。
「すまない、イザミ君。すぐにでも首都に行きたいだろうが……」
どうやら、私のことを気遣ってくれていたようだ。
マスターさんの言葉に、思い出される。私は、私に取り憑いた銃を外すために、首都へ行く。
それなのに私は首都への憧れから浮かれている。真剣に心配してくれているマスターさんに、申し訳なくなった。
マスターさんもブエルさんも、私の為に動いてくれているのだ。それをちゃんと心に留めておかねば。
その謝罪も込めて、笑う。
「いいえ、私のことは大丈夫です。ありがとうございます、マスターさん」
「イザミ君……」
マスターさんが、ふっと微笑んだ。
それに、少しドキリとする。
面食いなわけではないが、こんなに綺麗な人に微笑みかけられれば、誰だって少しは……っと、何故言い訳する私。
と。
「はい、はい、はいー。とっとと行ってきなさいマスター」
ブエルさんが、私とマスターさんの間に入ってきた。
「どうせここで休憩予定だったんだから、ちょっとくらい時間かかったって大丈夫だよ。何かあったら、私もいるしね」
ブエルさんの乱入に、マスターさんは苦笑した。
「わかったよ。……御主人、お願いします」
「はいよ」
こうして、マスターさんとおじさんは、傘をさして、外へと出て行った。
***
とりあえずマスターさんを待つ間、取った部屋に入ることにした。
宿に泊まるということは、この時が初めてだったりする。なんだか新鮮だ。
「うへぇ、やっと休めるぅ」
同じ部屋に泊まることになったブエルさんが、ベッドに飛び込むように倒れた。そういえば、馬車に酔っていたんだった。
「ううー、まだ気持ち悪いー」
マスターさんに対して緊張感のないブエルさんに、マスターさんから感化されて緊張していた私は脱力してしまった。
「お薬ないか、聞いてきますね」
私はそう言って、部屋を出た。
客室は二階にあったので、宿のおばさんがいるであろう一階に下りる。
と、階段の途中で、人と出くわした。
十二歳くらいの女の子だった。湯気の立つマグカップが三つ乗ったお盆を持っている。
「あ、いらっしゃいませ。これ、サービスです!」
どうやら、宿の人達の子供らしい。ホットミルクのサービスを持ってきてくれたようだ。雨に濡れて体温が下がっていたので、ありがたい。
「ありがとうございます。あ、すみませんけど、乗り物酔いのお薬ってありますかね。できれば、予備ももらいたいのですけど……」
「お薬ですか、ありますけど……」
と言って、女の子は固まった。
……どうやら、先にサービスを持っていくか、薬を取りに戻るか、悩んでいるらしい。
「ミルク、私が持っていきます。お薬お願いします」
「あ、すみません……!」
私は苦笑して、女の子が持っていたお盆を持った。女の子は自分の内心を知られて、気恥ずかしそうに一礼して、下へと戻っていった。
私は女の子とは逆に階段を上り、部屋に戻った。
部屋を開けると、藍色が目に入った。ロキさんだ。ベッドに座って、天井を仰いでいる。
一瞬部屋を間違えたかと思ったが、ブエルさんがロキさんの座っているベッドで倒れているので、私達の部屋で合っていると確信する。
「ロキさん、どうしたんですか?」
「あ? なんだよ、俺がいちゃ不都合かよ」
別に不都合ではないが、ここ、一応女子部屋だし……。
言葉には出さないで、お盆を近くのテーブルに置いた。マグカップは三つ、ロキさんの分も入っている。届けに行く手間が省けたということにしよう。
「サービスだそうですよ。あ、ブエルさん。お薬、もう少しで来ます」
「ういー。ありがとうイザミちゃん」
ブエルさんは力のない声で言った。
「イザミちゃんはいい子だねー。言われなくてもやってくれるし。将来良いお嫁さんになるよ。それに比べてロキときたら……私見ても大丈夫の一言もないのかい、君は」
「何をー? こうして心配して見に来てやったじゃねーかよ」
「自分が寂しかっただけでしょーが……」
「馬鹿言うなし! 俺はなぁ……」
ロキさんの文句は、ドアがノックされた音によって止められた。
「お薬お持ちしました」
ドアの向こうから声がする。さっきの女の子だ。
私は返事をして、ドアを開けた。
さっきの女の子が、お盆にお水と薬を乗せて立っていた。
私はそれを受け取る。
「ありがとうございます」
「はい、また何かご用がありましたら、お声をかけてください」
慣れていないのか、少し硬い言葉遣いだった。
女の子が去って、私はブエルさんにマグカップを渡した。
「お薬の前に、空腹は避けた方がいいですから。はい。まずはこれで」
「ううー、イザミちゃんはいい子ね。ロキとは大違い」
「あのなー!」
ロキさんが再び文句を言い始める。薬を飲んで少し元気になったブエルさんが、それに応戦し始める。
『カミ』のことで大変だっていうのに、何という緊張感のなさ。
さっき、浮かれていたことを後悔したばかりだというのに……この二人のやり取りに、私は思わず笑みをこぼしていた。
飲み終えたマグカップを返却しに、私はまた下へ降りた。
すると、一階の窓に、へばりつくように外を見ている女の子がいた。
さっきの子とは、背丈で違うとわかった。こっちの子の方が小さい。
私の視線に気づいたのか、女の子はこちらを振り返る。
そして、走ってこっちに向かってきた。
「ねぇ、おとうさん、しらないー?」
「お父さん?」
おそらくこの宿のおじさんのことだろう。ということは、この子はさっきの子の妹だろうか。
「えっと、お父さんなら、長老さんのところに行ったよ」
「ちょーろーさんのところ……」
「こらー! リン! 部屋にいろって言ったでしょ!」
そこに、さっきの女の子が、怒って走ってきた。
小さい方の女の子――リンちゃんは、お姉ちゃんを見てキャッキャと笑いながら、奥へ走っていった。
お姉さんの方の女の子は、それを追いかけず、私に謝罪した。
「すみません、妹が! 御迷惑をおかけして……」
「いえいえ、何も迷惑なんてかけられていませんから、大丈夫ですよ」
恐縮してしまっている女の子をなんとか安心させようと、私は努めて声を柔らかくした。
「あ、これ、御馳走様でした」
「え、あ、わざわざありがとうございます!」
私が差し出したお盆を、女の子は受け取った。
と、そこで会話が途切れた。
何故かお互いの顔を見合う。
そして同時に、噴き出した。
「ご、ごめんなさ……」
「いやいや。敬語、やめよう? 私達、年近いんだし」
また謝る女の子に、私はそう提案した。
さっきから緊張しているようだし、そんな態度ではこっちもやりにくい。
提案に対して女の子は少し驚いたようだったが、やがてにっこりと笑った。
「ありがとう。外から来るお客さんにはまだ慣れてなくてね」
どうやら、私の提案は受け入れてもらえたようだ。
「私はイザミ。あなたは?」
「あたしはエナだよ。さっきのは妹のリン」
「外から来るお客さんには慣れていないって、どうして? ここ宿屋さんでしょ?」
「んにゃ、どっちかっていうと、酒場に近いね。宿はついでって感じ。酒場での接客なら慣れてんだけどね。まあ、たいていは村の人だし。
今はみんな、家で『カミ』の心が静まりますようにってお祈りしてるからいないけど、普段はここは人で賑わってるんだ」
エナとの会話は、とても楽しいものだった。
思えば、私の村には子供はいたが、ほとんど私とは年が離れた子ばかりだった。エナほど私と近い子は初めてだ。
「首都に行くの?! へぇー、羨ましいなぁ!」
「エナは行ったことある?」
「うん、一回だけ。人も者も多くて、楽しかったよ! いいなぁ、あたしももう一回行きたい!」
「でも、楽しめるかどうかはわからないんだよね」
「どうして?」
聞かれて、どうしようかと思った。
銃を調べるために首都に向かうのだが、そのことを言ってもいいのだろうか。
悩んで少し言葉に詰まると、おばさんが奥から出てきた。
なんだか良い匂いがするが、どうやら奥は厨房のようだ。
「ちょっと、リン知らないかい? あの子、また厨房からお玉持ってっちゃったらしくて」
「えー? 知らないよー?」
「困ったねぇ。探しておくれよ」
「もう……わかったよ」
エナはマグカップの乗ったお盆を持って、すまなそうに言った。
「ごめんね、妹探すから」
「いいよ。またあとでね」
私がそう言うと、エナは笑って頷いた。
そして、お盆を持って、おばさん共々奥へと消えた。
取り残され、雨音だけが空気を響かせる。
一気に虚しくなった私は、部屋に戻ることにした。
二階に上がる階段に足をかけた、その時。
「?」
何か雨の音を掻い潜って、私の耳に届いた。
何故かそれが気になって、私は階段に足をかけたままの恰好で、音に集中する。
聞いたことのある音だった。
村で、そう。トーマスおじさんの飼っている犬がしていた……。
そう、遠吠えだ。
野犬でもいるのだろうか。こんな雨だし、誰か外に出て噛まれたりはしないだろう。
しかし、その遠吠えは、徐々に大きくなっていく。
ところどころずれているから、これは、複数が鳴いているんだ。
一匹や二匹ではない、両手の指くらいの数くらいはいる。
こんなに野犬が……?
と、思った瞬間、上で扉が音を立てて開かれた。
そこから、ロキさんが血相を変えて出てきた。気分が良くなったのだろうか、ブエルさんもだ。
「おい、ガキ! 戸締りちゃんとしろ!」
「へ?」
「へ? じゃねー! この遠吠え! 魔物だ魔物!!」
「?!」
ロキさんの言葉に、私は戦慄を覚えた。
魔物は、一種の『カミ』だ。
本来『カミ』はマスターさんのように、人と同じような意識がある。しかし、魔物にはそれがなく、見境なく人を襲う。
「こんな人が住んでいる所には、警戒して来ないはずじゃ……」
私がそう言うと、ロキさんは私を睨んで怒鳴った。
「馬鹿が! 俺は魔術師だぞ?! 魔物の魔力感じたんだっつの! しかもこれ、『カミ』の魔力に感化されて、凶暴になってんじゃねーかよ! ほら、早く戸締りしろ!」
そうだ、ロキさんは若くてちょっと口が悪いが、凄い魔術師だ。
それにブエルさんだって慌てている。嘘ではない。
私は走り、おばさんが消えた奥へと行った。
予想通りそこは厨房で、おばさんが料理をしていた。トントンと軽快に包丁が鳴る。
「お、おばさん大変大変!」
「えー? どうしたんだい?」
料理中って、色々な音が鳴るから、意外と外の音が聞こえないものだ。
私は悠長なおばさんに余計に焦って、たどたどしい言葉で言った。
「ま、魔物! ロキさんが、魔物が来るって! 私もたくさんの遠吠えを聞いた!」
「魔物ぉ?! こんな人里に?!」
どうやら、おばさんも信じられないようだ。包丁で野菜を切る手を止めてはくれたが、顔が信じられないと言っている。
「ロキさんは凄い魔術師だから、信用できますよ!」
と、雨音を完全にのけて、遠吠えが聞こえた。すぐそこまで来ているということだろうか。
おばさんの顔色が、青くなった。
「ああ、ああ! なんてこと!」
どうやら、信じてくれたようだ。
「じゃあさっそく戸締りを……」
「違う、違うの! 子供が、エナとリンが、外に出て行ってしまったの!」
「?!」
おばさんは完全に取り乱していた。
青い顔でオロオロとあたりを見渡す。
「リンがお父さんを追って、それでエナがリンを追って……どうしましょうどうしましょう!」
なんだって?!
そういえば、リンちゃんは「おとうさんしらない?」と聞いてきた。それで、私は「長老さんのところだ」と答えた……!
まさか、それでリンちゃんが出て行ったというのか?! そして、それを連れ戻すために、エナが?!
「おー、いたいた! おばさん! ガキから聞いたよな、魔物除けの御印あるよな、あれ一応やって……ってどうした?!」
ロキさんが、そう言いながら厨房へと来た。
しかし、おばさんの狼狽ぶりを見て、何か察したようだ。
おばさんの代わりに、私が事情を話した。
「っ、くそ! マジかよ!」
ロキさんはそれを聞いて、悪態を吐いた。
そしてロキさんは……何故か私を小脇に抱えた。
「え。え?! ロキさん何考えて……」
「おばさん! うちのブエルが今戸締りしてるから、落ち着いたらそれ手伝ってくれ! ガキは俺等で探す!」
「俺等?! 私もですか?!」
「ったりめーだ! 俺はガキの顔、片っぽしか知んねーだろ!」
「だ、だからって! 私、足手まといになりますよ!」
「はっ! お前程度小脇に抱えて戦うのが、丁度いいハンデだっての!」
そう言ってロキさんは、私を小脇に抱えたまま。
厨房の勝手口から、外へと飛び出した。