私は浮いていた。
 夢の中なので、音も感触も温度も感じられないが、やはりそれは夢の中なので、私が浮いているのは水だとわかった。
 ただ、何をするわけでもなく、油のように水に浮いて揺られている。

 体は完全に弛緩しており、時折わずかに揺れる水面は、まるで揺り籠のよう。
 そうなれば差し詰め、私はその揺り籠に眠る赤ん坊だ。

 その空間、時は、とても心地よかった。眠る赤ん坊を包み祝福する、優しい世界だった。

 しかし、それは一筋の光によって破壊された。
 瞼を貫いて、光は私の目を焼く。
 光の筋はそのひとつにとどまらず、堰を切ったように幾つもの光が飛び交い、私を焦がしていく。
 安息の世界は、一気に私への悪意の世界へと変わる。
 私は辛くて痛くて苦しくて。

 叫んだ。


第二章   始まりを告げる雨音   第一話



 目を開けても、飛び込んでくるのは光。
 しかしその光は、全てを温かく照らす、優しい太陽の光。
 全てを焼き尽くさんとするさきほどの光とは、まったく別物だった。

 悲鳴をあげ、飛び起きた私の目に映ったのは、いつも朝目覚めてから目にするそれと同じ――私の部屋の中だった。
 カーテンの隙間から漏れる光と、鳥のさえずりが、私に朝だということを知らせている。

 しかし、いつもと変わらない朝でも、先ほど見た夢のせいで、私は酷く動揺していた。
 悪意ある光の線。それが鮮明に、瞼の裏で雷のように光る。
 自然と震え始めた体を抱いて、私は部屋を見渡し、探した。

「――ザミ、イザミ?! 大丈夫か!!」

 慌ただしく廊下を蹴る音と共に、私を呼ぶ声。
 すぐさま、私の部屋が弾かれたように――後で知ったが、本当に魔術で吹き飛ばして――開いた。
「おばあちゃん……!」
 探していた人が見つかって、目が潤むのがわかった。
 おばあちゃんは血相を変えて駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
 それだけで、体の震えはなくなっていく。おばあちゃんの体温、髪の香り、全てが私を安心させてくれる。

「ああ、イザミ、すまない。怖い思いをさせた……」
 まるで私の震えがおばあちゃんに移動したように、おばあちゃんの体はわずかに震えていた。
 怖い思いとは何だろう。たしかに夢の中では怖い思いをしたが、それはあくまでも夢の中の話だ。おばあちゃんがこんなに狼狽する必要はない。

 何のことだろうと、記憶を探る。
 ――と、脳裏に、緑の閃光が煌めいた。
 そこで思い出す。昨日の、一連の騒ぎを。
 私は確か、丘に『呼ばれて』、そこで――あの魔術師に出会った。
 そしてあの後、私は気絶してしまったのだ。
「おばあちゃん、昨日、あの後どうなったの?!」
 あの時、ロキさんもマスターさんも、魔術師にやられてしまっていた。
 二人は無事なのだろうか……。

 おばあちゃんは私のことを放して、ベッドに腰を下ろした。私を安心させようと微笑む。
「アス……マスターもロキも平気だ。無駄に頑丈だからな」
 しかし、微笑みはさっと消える。
「あの魔術師は、結局逃がしてしまった。クソッ、私のイザミにこんなことしてくれて……見つけたら、ただじゃ済まさん」
「え? こんなことって……」
 また憶えのないことを言われ、私は当惑した。
 おばあちゃんは至って真面目な顔で、私に向かう。
「イザミ、落ち着いてくれ。……お前の、左腕だ」
 左腕?

 言われて私は、自身の左腕を見た。
 見て、唖然とした。
 全然気付かなかったのだが、左腕には、銀色の腕輪――いや、枷がされていた。
 それには、鎖が伸びており……
「これ……あの時の……!」
 その先には、銃が繋がっていた。

 あの丘で、魔術師が取りだした、銃。
 昨日、村を襲った賊が所望していた、銃だった。

 な、なんでこんなものが、私の腕に……?!

「私が駆け付けた時には、既にそれはされていた。魔術師もいなかった……。クソ、すまないイザミ……」
 混乱して絶句している私を、おばあちゃんは再び優しく抱き締めた。
 しかし、今度は私の中の恐怖は、今度は消え去らなかった。

 昨日のことが思い出される。ロキさんもマスターさんも、あの魔術師に圧倒的な力でねじ伏せられていた。そしておばあちゃんも、あの魔術師が施した封印で魔術が使えなかった。魔術ではおばあちゃんを上回っているということだ。
 そんな強力な魔術師が、一体私に何をしたのだろう。
 それに――あの時の魔術師の表情。
 私を見た時、あの魔術師は、傍から見れば無表情だった。
 傍から見れば。
 私には何故か、その無表情の奥に、狂喜が見えた。
 私を見て、狂喜し、しかしそれを隠すために無表情を繕う。

 それはとても、不気味な表情だった。

 再び震えた体を、おばあちゃんがきつく抱き締める。
 と。
「リグルー! 帰ったぞー!」
 ロキさんの威勢のいい声が、家に響いた。
 おばあちゃんが、私を抱く腕を緩め、顔を玄関の方へと向けた。
「ロキが帰ってきたようだ」
 おばあちゃんは立ちあがって、玄関へと向かおうとする。
 しかし、その前に、私を見て。
「さあ、行くぞ、イザミ」
 私はその言葉に、とても安堵した。

 こんな気持ちで、わずかな間でも、一人で居たくない。


***



 ロキさんを待たせないように、慌てて身支度を整える。
 しかしロキさんは、その僅かな間ですらも、待たされて不機嫌だった。
「なんだよー、お前の為に首都行ってたってのによー。いっちょ前に身支度たぁいい御身分だなぁ、ガキのくせに!」
「ご、ごめんなさい……」
 身支度って言っても寝巻を着替えたり、顔洗ったりという必要最低限のものなのだが……。
 相変わらず私のことをガキと呼ぶロキさんだが、そのことは今は気にならなかった。

 何故ならさっきから、私の腕に取り付けられた銃をこねくり回している女性がいたからだ。難しい顔で、うんうん唸っている。気になって仕方がない。
 ロキさんが首都に行ったのは、この人を連れてくるためだったようだ。
 褐色の肌に、長い黒髪が流れる。白衣を着ていたのでお医者さんかと思ったのだが、聴診器とかそういった医療道具を一切持っていなかった。
 しばらく銃にかかりっきりになっていたと思ったら、今度は私の手を取った。私の手を両手で握りしめ、まるで何かに祈祷しているように頭を垂れる。

 そういえば、私達は、私の腕にくっついたコレを「銃」と呼んでいるが、正直、私の知っている銃とはまったく違うものだった。
 弾を込める部分がないのだ。それなのに、引き金はあるし、銃口もある。
 冷静に見れば、おもちゃか何かかと思うが、周りの人達の反応を見る限り、そうではないらしい。

「……駄目だ、これは」
 しばらくして、女の人はそう言って顔を上げた。
 だ、駄目ってなんだ。お医者さんのような格好の人にいきなり「駄目」なんて言われては、不安で仕方がないのだが。
「どういうことだ?」
 ロキさんが私の疑問を口にする。
 女の人は髪を掻き上げ、ため息をついた。
「この銃、完全にこの子と魔力の経絡を合わせてしまっている。無理に剥がそうなら、この子が無事じゃ済まない」

――無事じゃ、済まない。
 その言葉に、戦慄を覚えた。
 不気味な魔術師に取り付けられた、不気味な銃。それは私に、悪影響を与えているということなのか。

 と、私の頭に、温かい手が置かれた。
 おばあちゃんかと思ったが、違う。女の人だ。手を握っていた時には感じなかったが、今は、まるで安心して溶けるような温かさが、その手にはあった。
 同じような温かさのある笑みで、女の人は笑いかける。
「大丈夫。無理に引き剥がせば、の話だよ。今は何もしなければ大丈夫」
 温かさとその言葉で、私は安心する。
 ……なんだか今日は、誰かに慰められてばかりだ。これではロキさんにガキって言われても反論できない。

「待て」
 私は安心して女の人に笑みを返したが、おばあちゃんは厳しい顔色のままだった。
「『今は』とはどういうことだ」
 女の人の僅かなその言葉の切れ端を、おばあちゃんは見逃さなかった。
 そうだ、「今は」ってことは、後々何かあるってことでは……。
 安心したのに、心に不安の影が顔をのぞかせる。

 おばあちゃんの射抜くような視線に、女の人は苦渋で顔を染めた。
「……正直、私単体で診るのは限界があるということです、リグル様。この銃は複雑すぎる。私が診るだけでは、魔力経路が繋がっているというくらいしかわからない。ちゃんと設備が整っている首都に行って、ちゃんと調べた方がいい」

 首都。
 私は、その言葉に心躍った。
 私は物心ついたころからこの村にいる。村の外に出たことは数えるほどしかなく、しかもそれは全て近隣のちょっと大きい町だった。首都など、夢のまた夢である。
 この銃を調べるという名目なので、不謹慎だとはわかっているが、首都に行けるという話に、私は期待せざるを得なかった。

「……なんとかこの村でできないのか?」
 しかし、おばあちゃんは密かに浮かれる私に対して、顔をしかめていた。
 その表情に、浮いていた心が沈む。おばあちゃんが渋る理由を知っているからだ。
 それを思い出して、私は自分を恥じた。おばあちゃんのことを忘れて、首都に行けることにはしゃいでしまうなんて。なんて不孝者だ。

 しかし女の人は、おばあちゃんの望みを、首を振って却下した。
「しっかりと、この銃とお孫さんのことを調べたいのなら、首都で行った方が良いです。それに――」
 女の人は、言葉を続けることを戸惑った。
「この銃には、『緑の一族』が絡んでいる。議会の方にも話を通した方がいいだろう」
 と、その言葉を、繋いだ人が現れた。

 いつの間にかロキさんの後ろに立っていた、マスターさんだった。

 その唐突の出現に、ロキさんが顔をしかめる。
「あのなぁ、急に人の背後に立つなよ! キモイ!」
「黙れロキ。アス、やはり議会は動いたか?」
 おばあちゃんはロキさんに一括して、マスターさんに向き合った。
 ロキさんはそれに唇を尖らせてすねたが、無視してマスターさんは答えた。
「動いたも何も、――ほれ、見ろ」
 マスターさんは封筒をどこからか取り出し、テーブルに置いた。
 おばあちゃんはそれを見る。――見て、顔を強張らせた。

 封筒には封蝋がしてあった。その封蝋には模様が描かれていた。木版を押し付けてつけたものだろう。薔薇に、剣でできた十字。
 これは、この国の議会の紋章だった。
 つまりこの手紙は。
「私がギルドに帰った途端に渡された」
 おばあちゃんは封筒を乱暴に破り開け、中の手紙を読んだ。
「『昨日英雄の村で視認された緑の光の詳細を報告せよ』。私自身にか」
「そうだ。やれやれ。ギルドのマスターに配達をさせるとは、贅沢者め」
 マスターさんはため息交じりにそうこぼした。実に呆れている、といった体だ。

 首都にこの村が襲われたことがもう知れているなんて。なんて早さだ。
 しかし、理解できないことではない。この村は、十六年前の革命の英雄達が住んでいる村だ。首都……というか、この国の民にとって、この村と村人の存在感は大きい。希望の象徴とも言っていい。その村に何かあったら、それこそ一大事だ。

「お前が伝える、では駄目なのか?」
 おばあちゃんは面倒くさそうに、マスターさんに聞いた。マスターさんは肩をすくめる。
「したさ。それでも『直接聞きたい』の一点張り。駄目だよ、ちゃんと連絡はきちんとしないと、相手は拗ねてしまうよ?」
「離れてみてわかる情念ってやつか。まったく……」

 おばあちゃんは頭を抱えて、盛大にため息をついた。

 何故おばあちゃんやマスターさんが、そんなに議会に対して消極的なのかはわからない。
 しかし、この手紙が決め手となり、私は首都へと向かうことになった。


***



 首都へは、馬車で二日ほどかかる。
 今日のうちに出発すると言われ、私は慌てて準備を始めた。
 魔術でなら一瞬で移動できるが、転移魔術は一人の移動が限界である。転移魔術どころか魔術自体使えない私を抱えて移動するには、馬車しかない。

「んと、服とかはこれでいいとして、それで……」
「一週間分くらいで大丈夫だぞ。何か足りなかったら向こうで買えばいいし、でなければあとで私が持って行く」
 衣服類を鞄に詰めている私に、おばあちゃんが言った。
 おばあちゃんは、私と首都へ向かわない。賊達に破壊された家屋が多く、その修理や状況把握の為に村に残るのだそうだ。私と離れることを心底不満そうにしていたが、村の為なので仕方がない。議会にもそこのところは了承しているらしい。手紙に書いてあったそうだ。
 それらが終わり次第、おばあちゃんは魔術で飛んで首都に来るそうだ。
 ……魔術って本当に便利だなぁ……。

「にしても、これ、邪魔だなぁ……」
 私は、床に引きずっていた銃を、鎖を手繰り寄せて持ち上げた。初めはあるだけで恐かったが、今では足とかに絡んできて鬱陶しいと思えるようになった。
 ……これも、首都行きで浮かれているせいかもしれないが。
「うむ、こうしてはどうだ?」
 おばあちゃんが、クローゼットからポシェットを取り出した。小さい頃に使っていたもので、少しボロボロだ。
 それに銃を入れて、私の肩にかけた。意外にも、銃はすっぽりと収まっていた。
「まったく、私のイザミを困らせるとは……忌々しい」
 おばあちゃんはそう言って顔を顰めた。

 おばあちゃんは真剣に私を心配しているのに、対して私は浮かれていて、申し訳ない気持ちになった。
 しかしそれは、マスターさんが準備完了だと呼ぶ声によって、かき消えてしまった。
 首都行きの期待もあったが、こんな銃なんてすぐに取れると、根拠のない自信があったのかもしれない。



 荷物を玄関まで持っていくと、マスターさんが待っていた。
「持つよ、イザミ君」
「え? あ、ありがとうございます……」
 馬車は広場に停めてある。重たく大きい荷物を持って、おっかなびっくり歩いていたせいか、マスターさんが手を貸してくれた。
 それに、おばあちゃんの目つきが険しくなる。
「お前……言っておくがな、イザミに手を出してみろ。ギルドごとお前のこと消滅させるからな!」
「何を怒っているのやら。レディに対してこれくらい普通だろうに」
 おばあちゃんの怒気を、素知らぬ顔で受け止めながら、マスターさんは私の荷物を馬車に積み込んだ。その態度に、おばあちゃんは目に見えて不機嫌になった。

 と。
「大丈夫ですよ、リグル様。私がついていますから、マスターに好き勝手させません」
 馬車の窓から、あの女の人が顔を出した。
 マスターさんもこの女の人も魔術で移動できる技量があるそうだが、私に付き合って、馬車で首都に向かうそうだ。

「というわけで、イザミさん。マスターに何かされたら、すぐに言いなさいね。というか、私の傍から離れないように」
「は、はあ……よろしくお願いします。えっと」
 そういえば、この女の人の名前を聞いていない。
 女の人は察したのか、「ああ!」と言って苦笑した。
「ごめんなさい、自己紹介してなかったね!」

 女の人はわざわざ馬車から降りて、手を差し出した。
「私の名前は、ブエル。『よろず屋ギルド』で、医術師をしているんだ。これから何かと顔を合わせると思うから、よろしく頼むよ」
「イザミ・ロヴァウルです。よろしくお願いします」
 差し出された手を握りしめ、私も名乗った。

「急ぐ旅だ。行こうではないか」
 マスターさんが、そう促した。
 と、私はそこであることに気付いた。
「あの……ロキさんは?」
 さっきから、ロキさんの姿を見ない。首都行きが決まって、私が荷作りの為に部屋に戻る前に見たのが最後だ。

 ブエルさんが、苦虫を噛み潰したような顔で、それに答えてくれた。
「あいつ、馬車で私達が向かうっていったら、『馬車? 二日?! 魔術なら一瞬なのに! 付き合ってらんねー!』とか言って、さっさと魔術で退散しちゃったよ」
 今の私の周りには凄い魔術師がたくさんいるが、本来なら、魔術は扱える者自体が稀である。転移魔術を簡単に使用できる人なんて、更に希少だ。
 だから私が気負う必要はないのだが……やはり何か申し訳ない。

「まあ、ロキなどいても疲れるだけだ。さあ、行こう」
 マスターさんが、私達に乗車を促した。
 しかし。
「イザミおねえちゃーん!!」
「!」
 遠くから、こっちに走ってくる人影があった。
 村の子供達だった。

「イザミお姉ちゃん、遠くに行くって本当?」
「もう帰ってこないの?」
「本読んでくれるって約束したー!」
 皆が次々に言葉を並べ始めた。ほとんど何を言っているか聞き取れないくらい言葉が重なっていたが、なんとかそれを聞きとる。
 皆を心配させないように、私は努めて笑顔を作った。
「大丈夫だよ、畑の作物が採れるくらいには、きっと帰れると思うから」
「本当ー?」
「約束だよ、イザミお姉ちゃん!」

「イザミ君、そろそろ」
「あ、すみません!」
 子供達に囲まれていた私に、マスターさんが苦笑して言った。
 さっきから出ようとして、止められてばかりだ。

 子供達とおばあちゃんに手を振りながら、私達は村を出た。


***



 田舎なのであまり綺麗に舗装されていない道は、馬車を大きく揺らす。
 普通なら酔ってしまうところだが、そうはならなかった。
 だって、初めての首都だ。心配していた子供達やおばあちゃんには悪いが、これほど胸がときめくものはない。
 村からあまり出たことのない私には、窓から流れていく景色ですら心を躍らせる。

 石を轢いたのか、馬車が大きく揺れた。
「うおぅ?! マスター、安全運転してくれよー! これじゃ首都まで持たないよー!」
 ブエルさんが、馬を操るマスターさんに訴えた。ブエルさんの顔に血の気がない。どうやら、酔ってしまったようだ。
「我慢したまえ、もうちょっと行けばちゃんとした道に出るから」
 私の頭あたりに、運転手が見える小窓がある。そこから、マスターさんはブエルさんに答えた。
「ううー」
 ブエルさんはそれ以上は何も言わず、そのまま横になって目を瞑った。

「ブエルさん、医術師さんですよね? 何か持っていないんですか?」
 私に言われ、ブエルさんが薄く目を開く。医術師は、お医者さんの魔術師版だ。
「んー……ロキに無理矢理連れてこられたから、本当必要最低限の物しか持ってきてないんだよー……」
 ブエルさんは、眉間に皺を寄せた。
「てかあいつ、何も説明しなかったんだよ? ただ『早く来い』の一点張りで……まったく、昔は可愛かったのに、どこであんな我が儘になったんだろ」
余計なお世話だっての!
「「?!」」

 突然、馬車が揺れた。同時に、ここにはいないはずの声。
 いつの間にか私の隣に、ロキさんが現れていた。
「ふえ?! ロ、ロキさんどうやって……?!」
「転移魔術だっつの。それ以外ねぇだろ」
 動く馬車の、私の隣という局所的なところに転移するなんて! やっぱりロキさんは凄い魔術師なんだなぁ。
 なんか、尊敬はできないけど。

「ロキ?! 帰ったんじゃないのか?!」
 運転をしている為、マスターさんは前を見ながら言った。
 ロキさんは足を組んで鼻を鳴らす。
「だって、俺だけなんか仲間外れみたいで面白くねーじゃん。だから来てやったんだよ!」
「寂しかったんですって素直に言えないのかねぇ、君は……」
 ブエルさんの小さな声に、ロキさんは彼女の椅子を蹴っ飛ばすことで答えた。

 それが意外に強い衝撃だったらしく、車体が揺れた。馬達がそれに驚いて鳴く。
「馬鹿ロキ、やめんか!」
 手綱を操るマスターさんが慌てて叫ぶ。
「へーへー。んで、今後どーすんだ? まさか首都までずっと馬車なんてことねーよな」
 ロキさんは我関せずといった風で、マスターさんに聞いた。
「まったく、お前は……」
 顔は見えないが、きっと顔をしかめているに違いない。

 マスターさんは仕切り直しに空咳をした。
「……勿論、ずっと馬車ではないさ。もう少し行った所に、村がある。そこで休憩だ」
「はいよー」
 ロキさんはそう軽く返事をして、窓から外を眺めた。

 沈黙が流れた。
 ブエルさんは酔いでぐったりしているし、ロキさんに何かを話そうにも、話題が思いつかない。
 ……非常に、気まずい。

 仕方ないから、私も景色でも見ようと、窓に顔を向けた。私の方から向こうにかけて、景色が流れる。
 それがしばらく続く。

 と。
「……ん、おいマスター!」
 ロキさんが、声を上げた。何事かと、ブエルさんも私もロキさんを見る。
 ロキさんは真面目な顔つきで、小窓からマスターさんに言う。
「このあたり、なんかおかしいぞ?!」
 何がおかしいのかはわからないが、ロキさんの緊張からして、ただ事ではなさそうだった。
「これは……このあたりの魔力が、震えている? 『恐怖』しているのか……?」
 マスターさんの小さな声が、小窓から漏れる。マスターさん自身が、ちゃんと理解できていないといった感じだ。
 ブエルさんも何か感じたのか、青い顔のまま起き上がり、窓から顔を出す。
「っ! マスター! 十時の方向!」
 ブエルさんが叫び、皆がそちらを見た。私もブエルさんの後ろから、窓の隙間から見る。

 今日は、快晴だった。お布団が干せるくらい、気持ちいい太陽が出ている、そんな。
 それなのに、ブエルさんが指す方向の空は、まるでどこからか切り取って張りつけたように黒い雲が覆っていた。

「あそこは……寄る予定だった村の方向だ」
 マスターさんが、手綱を強く握った。
「済まない、急ぐぞ! 揺れるから気を付けたまえ!」

 手綱が乾いた音を放ち、馬達が鳴く。
 馬車は急に揺れが激しくなり、私は壁に手をつけてそれに耐えた。

 首都行きの淡い期待に染まっていた心が、一気に不安へと変わった。





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