箱庭のような小さな世界で。
彼は、死んだ。
箱庭の中で
【1】
ベリアルは外の世界を見たことがなかった。この屋敷の外へ出てはいけないと、父に言われた為だ。
自分はただ、この屋敷の中で、父の力となるべく日々鍛練を行えと。それが、この家に生まれた者の使命だと。そう教わった。
何も知らない子供ならば、ずっと父の言う通りにしていただろう。
しかしベリアルは、そうではなかった。
知らないはずの外の世界を知り、そこに興味を持っていた。
ベリアルには姉が一人、いる。
厳密に言えば、兄も姉も沢山いる。ベリアルは末弟だった。
しかし、会話が“できる”兄弟は、一人だけだった。だからベリアルにとって、姉はその一人しかいないも同然だった。
その姉は、父に特別に許されて、外の世界に出ることを許されていた。
姉が外の世界で何をしているのか、ベリアルは知らない。しかし、姉が父に内緒で、外の世界の話をしてくれた。
「ベリアル、もう外は桜が満開で、とっても綺麗だったわ」
「さくら……、桃色の花を咲かせる植物でしたか、姉様」
「そうね、ベリアル。合っているわ。以前言ったことを覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
「ベリアル、今日は散々だったわ。昨日の夜に降っていた雨のせいで水たまりができていて、そこに自動車が来て、水が服に跳ねてしまったの」
「泥水だったのですか? それでは早く洗濯しないと」
「大丈夫よ、ベリアル。もうやったわ。ありがとう」
「ベリアル、雪が凄いわね。朝、学生さんが、踏み固められた雪で滑って転んでしまっていたわ」
「そうですね、姉上。使用人が屋根の雪を下ろしていました。……屋根の上からなら、外を見渡すことができるでしょうね」
「……そうね、ベリアル。でも、滑って落ちたら危ないわ」
姉のおかげでベリアルは外の世界を知ることができた。そして、自分も行ってみたいと、そう思った。
しかし、難しい問題だと、ベリアルは思っていた。
姉が外へ行く許しを得ていたのは、姉が優秀だったからだ。だから父の片腕として、父に同伴し、あるいは父の代わりとして、外の世界に行っていた。
対してベリアルは、姉と比べてそれほど優秀ではなかった。姉以来の「動ける兄弟」として生まれたが、才能は姉に続くことができなかった。
だからベリアルは外に行くことは許されず、屋敷の中で鍛錬に勤しむように言われている。
加えてベリアルは、姉から「兄弟」達の面倒を看ることを頼まれていた。
姉やベリアルと違い、「動かない兄弟」達。常に宙を見てぼぅっとしており、感情は無いに等しく、何を言っても反応を示さない。放っておけば食事もしないで飢え死ぬだろう。そういった「兄弟」が、この屋敷には十数人もいた。
使用人が世話にあたっているのだが、どうにも手が回らないらしい。当たり前だ、その使用人が一人しかいないのだから。だから姉と、姉に頼まれたベリアルも手伝って面倒を看ていた。
ベリアルは正直にいって、この「兄弟」達が好きではなかった。
良く笑う姉と違って、動かない表情の「兄弟」を見ていると、気が滅入ってくる。
それに、「兄弟」達を看ているよりも、ベリアルは鍛練をしたかった。
この「兄弟」達の顔を見たくないという思いが、ベリアルの外の世界への関心を更に肥大させていた。
そんな末弟の心を、優秀な姉は悟っていた。
だから姉は、ある日、こう言ったのだ。
「屋根の上から、外の世界を見てみましょう」
ベリアルは、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
ポカンとした表情のベリアルに、姉は微笑んだ。
「もう雪も融けて、危なくないから。ね?」
半ば放心状態で、姉につられてベリアルは庭に出た。
庭に近づくことすら、屋敷を出る行為として快く思われていなかったから、地面に足を付けたとき、ベリアルは気が気でなかった。
澄んだ空に満月が輝く、美しい夜だった。
皆が寝静まった暗闇の中、月明かりを頼りに、姉は屋敷の陰に向かう。
そこには、屋根に向けて梯子が掛けられていた。見つからないようにしつつ、昼間のうちに立て掛けていたのだろう。
姉が先に梯子にのぼる。ベリアルが後に続き、姉はベリアルを引き上げるように屋根へ上げた。
冷たい風が、強くベリアルの顔を撫でる。思わず目を瞑った。
雪が融けたとはいえ、まだ気温は高くない時期だ。ましてや夜は、まだ冷える。
ベリアルは、ゆっくりと目を開けた。逸る心を抑えるように。もしくは、わずかにある恐怖心のために。
ベリアルはこの時初めて知ったのだが、自分の家は、山の中にあった。
木々に囲まれて、隠れるように立つ屋敷。高い塀に囲まれている屋敷の中からは、それすらも判らなかった。
その山並みを越えて建物が見える。明かりがついているものは、ほぼない。しかし、路地は明かりで照らされて、そこを猫が歩いている。
真夜中の寝静まった世界。色のない世界。
「ごめんなさいね、ベリアル。本当は日のあるうちがよかったのだろうけれど」
姉は謝ったが、ベリアルは首を振って否定した。
目線は、はじめて見る外の世界からはずさない。
ベリアルはどこかで疑っていたのだ。本当に外の世界はあるのだろうか、と。世界には、この屋敷しかないのではと。
でも、確かに外の世界はあった。
それがわかっただけでも、ベリアルはとても嬉しかった。
もし外の世界が無かったら。無いものには、行くことはできない。
でも有るのなら、行くことができるはずだ。いつか、きっと。
姉に戻るよう促されるまで、ベリアルはずっとずっと、目を見開いて外の世界を眺めていた。
**********
ベリアルはそれ以降、幾度か姉と共に屋根に上がって外の世界を見た。しかし、父に見つからないようするために、望んだ時にすぐというわけにはいかなかったし、相変わらず夜の世界しか見れなかった。
人の好奇心と欲求は、止まる事を知らない。
それがいけないことだと、ベリアルは思っていた。それでも、外への渇望は抑えられない。
外の世界を見るたびに、ベリアルは、日の当たる外の世界を見てみたい、願わくば、歩いてみたいと思うようになっていった。こんな狭くて暗い箱庭のような屋敷の中ではなく、あの広くて明るい世界を。
抑えられない気持ちを持てあましつつ、ベリアルは日常を過ごした。
いつものように「動かない兄弟」達の面倒を看る。その後は、鍛練を。そして夜には――今日は行けるかわからないが――屋根の上から外の世界を眺める。
星の煌びやかな空の下、山の向こうに並ぶ人工物。時たま――姉が教えてくれたのだが――車という鉄の塊が、暗い道を走っていたりするし、家に明かりがついていて、影がカーテンを横切ったりする。そんな些細な事でも、ベリアルの心は躍った。今度は何が見つかるだろう。
そんな空想にふけりながらも、ベリアルは気がついた。
「動かない兄弟」が一人、いないのだ。
ベリアルと姉、使用人は、毎日「動かない兄弟」達に食事の膳を配って、そして食べさせている。
今日は用があるとかで、使用人は食事を作った後いなくなってしまった。姉も外に用事があるとかで出かけている。だから食事の膳を、ベリアル一人で配って回っていた。
しかし、最後の一人が見当たらない。膳もひとつ余っている。
「動かない兄弟」は、その字面の通り動かないのであって、「動けない」わけではない。稀ではあるが、移動することがあるのだ。
だから、ベリアルはその稀なことが起きたのだと思って、最後の一人を探して回った。
この屋敷は広いが、使用人は一人だし、他に住んでいるのは「兄弟」達を除いて、姉とベリアルだけである。父はたまに来て姉と話すだけで、ここには住んでいない。
面倒が増えて、尚且つ一人で探さなくてはならず、内心はとても億劫だったが、姉に頼まれている手前おろそかにはできない。ベリアルは虱潰しに部屋を見て回った。
ベリアルはいなくなった「兄弟」の顔を思い出しながら歩いた。「兄弟」達は、みんな似ている。それは血が繋がっているのだから当たり前なのだが、皆表情も無く動かないので、ことさらに見分ける特徴がない。しかしベリアルは、彼らの世話をするようになって約二年、ようやく見分けがつくようになってきた。皆、父に似た顔のつくりであったが、目元だったり、唇の形だったり、微妙に違う部分がある。
いなくなった「兄弟」は、男で、年齢はベリアルより少し上。ざっと見ると父に似ていたが、良く見ると姉にも似ていた。もし笑ったりしたら、とても温かい笑みになるのだろうと想像して、ベリアルはこの「兄弟」のことを少し気にいっていた。
ベリアルは足を止めた。もう、屋敷中探した。他の「動かない兄弟」達の顔と人数も確認して、自分の勘違いではないか確かめもした。間違いではない。しかし、屋敷のどこにもいない。
もしかして、入れ違いになったのか。ベリアルは、もう一度屋敷を探すために振り返った。
「?!」
しかし、ベリアルは再び足を止めた。
否、『凍った』。
いつの間にか、ベリアルの真後ろに、人が――父が立っていたのだ。
父は年齢にそぐわず、とても若い見た目をしている。それこそ、姉と大して変わらないような見た目の若さだった。
顔の造形や、病的なほど白い肌をしている点は、ベリアルにとても似ている。
しかし、決定的に違う点がある。――鋭い、眼光。
自分以外は劣っていると言わんばかりの、人を真っ向から否定する、排他的な視線。
ベリアルはその視線と自身のそれが合わさりそうになり、慌てて横にずらした。
父は滅多にこの屋敷を訪れない。訪れても姉と話はすれど、自分と話すことなど無い。何かベリアルに用があったとしても、全て姉を経由してだった。
だから、こうして顔をあわせるのはもとより、こんな触れられるほど近づいたのも初めてだった。
今日、姉はいない。それは父も知っているはずだ。いつも姉にしか用がない父が、何故ここに。
「ベリアル」
聞きなれない父の声は、氷のように冷たく、ベリアルを震えさせた。
「お前は今年でいくつになった」
「え……」
ベリアルの、年齢。
これが姉との会話であったら取り留めもない話だが、相手は父だ。何か裏があるのだろうと、ベリアルは恐る恐る答えた。
「今年で、十二になります」
「十二」
父はベリアルの答えを繰り返し、眉をひそめた。
「十二歳で、その程度なのか」
「ッ!!」
父の視線が一気に険しくなった。視線をそらしているのに感じるほどに。
ベリアルは引き攣ったような悲鳴を上げた。
強烈な嫌悪。それは殺意といっても良かった。
今すぐこの場から逃げ出したかったが、恐怖で体が動かなかった。
父の腕が伸ばされる。ベリアルの首を掴むように手が広がり、接近する。
まるで氷が迫っているようで、ベリアルはカチカチと歯を鳴らして震えた。
涙が溢れる。怖くて仕方がないのに、体は動かない。声も出ない。
その時。
「お父様!!」
「!」
悲鳴のような甲高い叫びが、場の空気を裂いた。
ベリアルの後ろから、姉が息を切らせながら走ってきた。
ちょうど帰って来たばかりだったのだろう。外着のままだったが、慌ててここまで来たため着崩れていた。
まだ固まっているベリアルの肩を掴み、自身に引き寄せながら、姉は険しい顔で父を見た。
「何をしていたのですか。お父様」
姉の問いに、父は答えない。代わりに、ベリアルに注がれていた射殺すような視線が、姉に流れる。
ベリアルの肩を掴んでいる手の力が強まる。しかし姉は、目をそらすことはなかった。
「何をしようと、思っていたのですか。お父様」
もう一度、問う。
やはり、父は答えなかった。
そして何も言わないまま、父は踵を返し、屋敷の入口へと向かっていった。そのまま帰るようだ。
姉はずっとその背中を睨んでいた。
しかし、それが見えなくなった途端、姉は足から崩れてへたり込んだ。
「姉上!」
ベリアルの肩に置かれていた手も、力が抜けて落ちる。それをベリアルは慌てて掴んだ。
「大丈夫ですか――、?!」
心配して姉に向き合った途端、ベリアルは姉に抱きしめられていた。
力が抜けてへたり込んでいる状況とは逆に、ベリアルを抱きしめる力は強い。痛みを感じるほどだ。
「姉上、あの」
姉がこのようなことをするのは初めてだったので、ベリアルは大いに戸惑った。
姉の言葉を待つ。その少しの間に、ベリアルは気付いた。姉は、震えていた。
「ベリアル」
自分の名を呼んだ姉の声も、同様だった。そして僅かに、目に涙を浮かべていた。
涙声を隠そうともせず、姉は言葉を続けた。
「ベリアル、良かった。何もなくて、本当に」
ここでベリアルはようやく理解する。姉は、怖かったのだ。
父は、姉以上に優秀な術者だった。
姉や使用人曰く、この家の歴史上一番とも言われているらしい。指ひとつ動かすことなく、一瞬で人を殺すことができるほどに。
それでなくとも、父は当主として絶対的な立場にあった。
そんな父に臆せず向かったのだ。父がいなくなったら、緊張の糸が切れてこうなるのも頷ける。
「ねえ、ベリアル。私のこと、好き?」
「……え?」
唐突で脈絡のない質問に、ベリアルは不意を突かれた。
それがどういった意図の質問なのか、何故今ここでその質問なのか、ぐるぐると考えていたため、答えが遅れる。
「……好き、です」
ベリアルは戸惑いながら答えた。
好きということに偽りはないが、質問の唐突さと、気恥ずかしさで、どもってしまう。
「うん。私も、ベリアルが好きよ」
姉はベリアルの答えに、そう返した。震えていた声が、少し治まる。
ベリアルを抱く力が、少し緩くなった。姉はベリアルを抱きなおした。
痛むことはなくなったが、姉は押し黙り、しばらく放してくれなさそうであった。
だからベリアルは諦めて、初めての姉の温もりを感じていようと思った。
**********
その日の夜は、屋根に登って外の世界を見ることはできなかった。
姉に、「動かない兄弟」の一人がいなくなったことを報告すると、姉の顔は、先ほど父と面した時のように険しくなり、何かを考えるように押し黙ってしまった。そして自室に引き籠り、その日は出てこなかったのだ。
そしてそれから数日の内に、「兄弟」達が一人、また一人と、消えていった。
どこにいったのか、ベリアルはわからなかった。姉も使用人も、わからないという。ベリアルも姉も使用人もいた時にも関わらず、「兄弟」が忽然と姿を消す事実は、大いに無気味であった。
その出来事が起こるたびに、姉の顔が暗くなっていった。
そして、姉はやたらとベリアルに触れるようになった。以前はまったくなかったというのに、ベリアルを抱きしめることも頻繁に起こった。
ベリアルを抱きしめているときだけ、姉の顔が明るくなったので、ベリアルは抵抗することなく、姉の腕に治まっていた。
姉は「兄弟」がどこに行ったのか知らないと言っていた。
しかしベリアルは、きっと姉は「兄弟」がどこに行ったのか知ってると思った。そして、そのことで思い悩んでいるのだとも。
姉は何も言わない。それはきっと、この事態に対して、ベリアルは何の力にもなれないからだろう。だからベリアルは、この事態に対して詮索するのはやめた。
心地よい体温に自身も安心感を感じながらも、ベリアルは自分の無力さに歯噛みした。
「今夜、外の世界を見ましょう」
それから数日が経った。十数人いた「兄弟」達は、半数にも減っていた。
姉は明るい笑顔でベリアルに話しかけたが、隠せないほどに疲れが顔に出ていた。
最近姉は、夜が明ける直前まで起きている。何をしているのかわからない。しかし、部屋に閉じこもっているだけではないようだ。ベリアルは寝た後、どこかに行っているらしい。
一度夜中に目が覚めたことがあったが、その時襖に、月明かりに照らされた姉の影が映し出されていた。姉はふらふらとした足取りで歩いていたが、ベリアルは部屋を出て姉に話しかけることはしなかった。何かあれば、姉から声がかかるはずだ。それがないということは、ベリアルにできることはないのだろう。ならばそっとしておいたほうがいい。力が無いものが変に気を利かせても、逆に負担になるだけだ。
ベリアルはそう思って、布団を頭までかぶって寝なおしたのだった。
だからベリアルは姉に逆らわず、その言葉に黙って頷いた。
外の世界を見ることはベリアルにとって喜ぶべきことである。だが、姉がこのような状態にあっては、彼女への不安のほうが勝っていた。
外は、夜でも上着がいらないほどに暖かくなっていた。雪なんて、もちろん屋根には無い。しかし、ベリアルは姉が足を滑らせて落ちてしまうのではないかと、彼女が腰を下すまで落ちつけなかった。
姉の隣に座り、山々を望む。そして、その向こうの世界を。
姉が座って落ちついたため、ベリアルの思考は、彼女から外の世界へと変わっていった。以前と変わらず、瞬きすら惜しいと言わんばかりに、じっと見つめる。
「……ベリアル」
呼ばれて、ベリアルはびくりとした。姉が呼ぶ時は、屋敷に戻ることを促すためだったからだ。
しかしベリアルは、恐る恐る見上げた姉の顔に、更に息を呑んだ。
有無を言わせない、強い視線。
一瞬父を連想したが、それとは違う。少なくとも、殺意は籠っていない。
「ベリアル」
姉はもう一度ベリアルの名前を呼び、一息ついた。
そして。
「今から、一緒に、この屋敷を出ましょう」
そう言った。
わけがわからない。最初に思ったのは、そうだった。
かつて「屋根の上から、外の世界を見てみましょう」と言われた時も、ベリアルは衝撃を受けて唖然とした。
だが、今回はそれどころではない。
外の世界は、ずっと憧れだった。姉が教えてくれる世界を、自分も見てみたかった。
しかし、難しいことだと思っていた。この屋敷から出るということは、父に信用されるということだ。姉のように。そこまでベリアルが優秀な人材になれるか、ベリアル自身が疑っていた。
だからベリアルは、外の世界に行くことなど、夢のまた夢。強い憧れの裏で、そう思っていた。
けれども、姉は言う。屋敷を出ようと。外の世界へ行こうと。姉と一緒に。
唐突の提案に混乱する。嬉しいはずだ。ずっと憧れていたことだ。諦めが影を差していたとしても。
しかし、身体が震える。何故。喜びからではない。
姉は、震えるベリアルの肩を掴んで、顔を近づける。
「ベリアル、大丈夫よ。貴方は私が守るわ。何に変えても。絶対――」
揺らがない瞳。心強さを感じるが、身体の震えは、それ以上の何かを感じている。
強い姉の眼差しより、強い何か。
「――絶対、お父様の思い通りになんか、させない」
父。
そうだ。姉より強い何か。父の視線。それがベリアルを震えさせる。
震えるベリアルを、姉は抱き上げた。屋根の上に、しっかりと立ち上がる。
突然の行動に、反射的に抵抗しようとしたが、姉の力はベリアルよりも強かった。
姉はそのまま、屋根を駆ける。その間に術を展開する。屋根を蹴り、塀を飛び越えるつもりだろう。そのための身体強化の術だ。
「あ、あねうえ」
「大丈夫」
ベリアルの震えた声を遮るように姉は強く言い、そして、術をかけた足に力を込めた。
浮遊。
屋根が足元から離れていく。そして、高い塀も越えて――
「あっ!!」
ぐん、と引っ張られる。
強い力で進んでいたのを無理に止められ、つんのめる。
屋敷から、一本の青白い紐が、姉の足に絡みついていた。足を痛めたのか、姉が呻き声をあげる。
瞬間、紐が強く引かれ、ベリアルごと姉は屋敷の地面に叩きつけられた。
「……ッッ!!」
姉は声が詰まって悲鳴もあがらない。
地面に叩きつけられる寸前、防御の術を展開していた。しかし、ベリアルを守る分しかできなかったようだ。ベリアルは衝撃で姉から離れた所に転がっていったが、体に痛みはなかった。
「姉上!!」
ベリアルは姉に駆け寄ろうとする。しかし、立ち上がった瞬間に、何かに弾かれて吹っ飛んだ。今度は痛みが体を走る。
「ベア……うぁ!」
姉は痛む体で無理をして起き上がろうとするが、遮られた。
髪の毛を掴まれ、そのまま上に顔を持ちあげられる。
「屋敷の結界を解除したか。元老院すら欺く強靭なものだというのに。やはりお前は素晴らしい」
「あ……」
父だった。
ベリアルは霞む視界で、父に髪を掴まれている姉を捉えた。
先ほどの紐も、ベリアルを弾き飛ばしたのも、父だろう。
姉の顔が痛みに歪む。遠慮なしに髪を掴まれているのだろう。
何ができるわけでもないが、ベリアルは姉のもとに衝動を覚えた。
しかし、体は痛みで全く動けなかった。首を動かすこともできない。声も出すことができない。
姉も似たような状態だった。声は上げられないが、姉は父を睨んだ。
しかし父は、その声なき疑問に気付いたらしい。
「……この屋敷自体が、私の術だ。結界だけではない。屋敷自体がお前達を見ている。随分探し回ったようだが、さて、どれほど潰せたかな」
「ぐっ……!」
そう言うだけ言って、父は無造作に姉の頭を放った。頭を持ち上げる力もない姉は、そのまま地面に突っ伏す。
そして父は次に、ベリアルの方に歩み寄って来た。
姉のように髪を掴まれはしなかった。代わりに、ベリアルの脇を片手で掴み、持ち上げる。
そしてそのまま、ベリアルを屋敷内に引きずっていこうとする。
「やめ……て……」
姉が呻く。しかし。
「がっ!」
父が一瞥しただけで、姉の体が軋んだ。
いつぞやの姉と使用人の言葉を思い出す。一瞥しただけで、人を殺せるほどの術師。
「殺しはしない。もったいない」
姉から視線を外し、父はベリアルを連れたまま屋敷に入った。
暗い屋敷の中を歩いていく。
首が動かない状態で、目だけで状況を確認する。父は屋敷を迷いなく進んでいく。しかし、ベリアルは気付く。この廊下は見覚えがない。ベリアルは生まれてこのかた、ずっとこの屋敷に住んでいる。屋敷内は知りつくしている。しかし、今、父が歩いている――自分が引きずられている廊下は、知らない。
隠し通路だろうか。全く知らなかった。一体どこに出るのだろうか。廊下は曲がりくねりながら、奥へ奥へと続いている。
廊下が軋む音と、ベリアルを引きずる音だけが響く。
「おやめください!!」
そこに姉の悲鳴が響く。
「もう術を解いたか。やはりお前は素晴らしい!」
父はそう絶賛しながらも、歩みは止めない。
ベリアルは目だけ巡らせて、姉の姿を探した。姉は、ベリアル達の随分後方にいた。まだ体は本調子ではないようで、壁に手をつき、足を引きずっている。
体に痛みが走るのを我慢しているのだろう、顔を歪めつつも叫ぶ。
「おやめください、お父様! ベリアルは『兄弟』達と違います! それにまだ子供です! 可能性はあります!」
「これはお前への罰でもある。屋根の上くらいなら、お前の酔狂だと思って見逃せたが、こいつをこの屋敷を出ようとするなら見逃すことはできない」
「ならば私自身を罰してください! ベリアルは関係ない!」
「言っているだろう。これは、お前への罰でもあるのだ」
父の声は、どこか楽しそうだった。
懇願が混じる姉の悲鳴に対したその声に、ベリアルは不快感を覚えた。
一歩進むのも辛そうな姉に目もくれず、父は歩みを進めていく。
長く続く暗い廊下。それが、不意に終わりを告げた。
壁だと思った場所が、急にかき消え扉が現れた。
ベリアルは、これが術によって隠されていたものだと察した。
ここまで歩いてきた廊下も、同じように術で隠されていたものだったのだろう。稀代の術師である父の仕業なら、生まれてからずっとこの屋敷に住んでいた自分に見抜けなくとも仕方ないと、ベリアルは妙に納得した。
鉄で出来た扉だった。ベリアルは、庭にある蔵のそれに似ていると感じた。
父はベリアルを掴んだまま、その錠前を外した。重い鉄の錠前が、床に叩きつけられる。
意に介さず、父は勢いよく、鉄の扉を開けた。
「ひっ!」
傷ついたベリアルの体が、反射的に縮こまり、悲鳴をあげた。
扉の向こうは、墨をぶちまけたような黒。夜よりも濃い闇。
何も見えないその向こうに、ベリアルは確かに、何かいるのを感じた。
冷たい風が、ゆったりと流れ、ベリアルの頬を撫でる。それに背筋が凍る。まるでベリアルを歓迎するような、そんな愛撫のような風だった。
しかし、その歓迎の意に、様々な感情が包含していることに、ベリアルは気付いた。
悲痛。飢え。疑問。恐怖。絶望。
そして、歓喜。ベリアルを仲間にできることへの。
それに気付いて、恐怖に叫ぶ間もなく、ベリアルは浮遊感を感じた。次に、背中に痛み。父に扉の向こうへと放り投げられたとわかった時、既に、扉が閉まろうとしていた。
冷たい風がベリアルを包む。まるで引き込もうとしているように。
薄暗い廊下から僅かに射す光が、ベリアルの他に、何かを照らした。
「!」
見覚えがあるものだった。
自分よりも少し年上で、父にも姉にも似ている――「兄弟」。
最初にいなくなったその「兄弟」は、虚ろな目で、転がっていた。
頭だけが。
「ああああああああ!!!!」
恐怖がベリアルを貫く。痛む体を無視して、ここから出ようと扉に向かって這う。
同時に、風が勢いを増した。ベリアルを逃がさないと言わんばかりに。
そして、光も射さない、更に奥で、何かが蠢く音がした。
何かが折れる音。引き裂ける音。水音。
咀嚼の、音。
「ベリアル!!」
ベリアルの悲鳴を聞いて、姉も叫ぶ。父が扉を閉めようとする。とても間に合わない。
「やめて、やめてお願いします!! ベリアルを『餌』にしないで!!」
「こいつも他のモノと変わらん。やっとましなモノが出来上がったかと思ったが、やはり『無能』だ。『餌』の価値しかない。――やはり、私の隣にはお前が相応しいようだ、『妹』よ」
扉が、もう閉まる。
わずかな隙間から、声が吹きこむ。
「『無能』よ。この家で『無価値なもの』よ。せめてその命、その感情。『餌』として役に立て」
「やめて『兄様』!! ああああベリアル、いやああああああ!!」
わずかに嬉しそうな『父』と、泣き叫ぶ『姉』の声。
扉が閉じる。闇とベリアルだけになる。
闇はベリアルを包んでいく。
――嬉しい
――嬉しい
――お前も同じ『餌』として、我らと共に。
そして、この箱庭のような小さな世界で、彼は死んだ。
死んで――