少女の嗚咽が、部屋の中に響く。
 ライズはそれを必死になだめようと背をさするが、まったく効果はなかった。
「リィン、大丈夫ですよ。いざとなったら、私が守ります。私はあなたの護衛なんですから」
「無理だよ!」
 リィンは、涙でぐちゃぐちゃになった顔で言い放った。
「いくら長年生きた魔王でも、かなわない相手がいる。それが『あいつ』なんだもの!」
 ライズは、それに返す言葉がなかった。確かに、今まで『あいつ』から逃れられたことは、一度もなかった。
 たった一人の少女の涙を止めることもできず、ライズは自分の無力さが悔しくて、唇を噛みしめる。

 少女の嗚咽は、増すばかり。
「もうだめ……あたし、あいつに……トレインに殺される……殺されるんだぁ!!」



■  囁きは悪魔にも天使にもなる



 発端は、先日のことだった。

ああー、もう!!
 リィンは頭を抱えて背もたれに寄りかかった。
「わかんない! もうやだ、わかんない!」
 彼女の叫びが、賑やかな談話室に響いた。

 テーブルには、魔法薬の教科書と、宿題のプリントが置かれている。
 そして隣には、その様子に呆れてため息をつく弟がいた。姉がこうして根をあげたのは、これで三回目である。ちなみに、姉の宿題はその間まったく進まず、逆にライズはその間に終わってしまった。

 リィンは涙目になりながら、弟に迫った。
「ライズ見せてよー。もうわからないよー」
「だめだ。それじゃリィンのためにならん」
「お願い!」
「だめだ」
「ううう……」
 プリントをさっとしまった弟を見て、姉はうなだれた。しぶしぶ自分のプリントに向かい、ペンを握るが、状況は変わらない。
 これもリィンを鍛えるためだと、ライズは本を取り出して悠々と読書し始めた。リィンはそれを脇目で見て、教科書を叩きつけてやりたかったが、ペンを強く握るだけに留まった。

「リィン」
うひゃあっ?!
 リィンは左耳を押さえて飛び上がった。突然、耳元で囁かれ、息まで吹きかけられた。
「と、ととと、トレイン?! やめてよ! ビックリすんじゃないのよ!!」
「ふふふ、可愛いなぁリィンは。何度もやってるのに、そうやって初々しい反応してくれるから」
「慣れるわけないでしょ、全く!」
 リィンの悪態に、トレイン・リウォーラはいつもの爽やかな笑みを浮かべただけで、彼女の向かい側の席に回った。

 赤面し、左耳をさすっていたリィンは、ふと、思いついた。
 同時に、トレインを見て目を輝かせる。
 トレインは、三学年で成績トップ2である。科目の全てが好成績。もちろん魔法薬もだ。
 リィンは飛びつく勢いで立ち上がり、言った。
「トレイン助けて! あたしを救えるのはもうトレインしかいない!」
「えー? それって魔法薬? 確かそれは……」
「トレインさん!」
 プリントを覗き込んだトレインを見て、ライズが咎めるように言った。トレインはそれに笑みで答えた。「大丈夫」というように。

「それはね、教科書に載ってないよ。授業でも習ってない」
 その言葉に、リィンはこぶしを握った。
「ええ、嘘?! だったらそんなのできないじゃない!」
「でも」
 意気揚々と語っていたリィンを、トレインは笑みのまま遮った。
 そして、カバンから本を取り出す。
「授業中に、先生が読んどくように言ったこの本に、ちゃんと書いてあるよ」
 リィンは、その本を見て唖然とした。
 トレインは軽々と片手で持ち上げているが、それは辞書のように分厚い。人の頭を殴ったら、気絶させられそうだ。

 リィンは震えそうな声で聞いた。
「そ、そんな本いつ先生言った?」
「結構前。一ヶ月くらいかな」
「聞いてない!」
「キミ寝てたもん」
「起こしてよ!」
「嫌だよ」
 この簡潔な応答に、リィンはデジャヴを感じた。隣を見たら、本を読んでいるその顔が、少し楽しそうに歪んでいるのがわかった。トレインも、ずっと爽やかな笑みを絶やさない。こいつら……。

 本を手渡され、ぱらぱらとめくる。小さい文字と、ごちゃごちゃした図が羅列している。
「まさかこれ全部読まないといけないの……?」
 目の前の恐怖に震えて小さくなった声に、トレインが答えた。
「いや、そのプリントなら一部読むだけで大丈夫だよ。たった三ページほど」
 リィンの目が再び輝いた。それくらいならいけそうだ。
「ど、どこ?! 教えて?!」
 予想通りの食いつきに、トレインの笑みが深くなった。
「教えてほしい?」
「うん!」
「そんなに?」
「うん! 教えてくださいトレイン様!!」

トレインの顔が、だんだんと緩んできているのに、ライズが気づいた。
「トレインさん。本だけ置いてさっさと……」
「どうしようかなー。だって簡単に教えるとリィンのためにならないし」
 ライズの声を無視し、トレインは崩壊しつつある顔で言葉を並べた。

 リィンはトレインに飛びつく勢いで迫った。
「そんなっ! 鬼畜弟と同じようなことを! トレイン様勘弁してください!」
「誠意が見えないなー。俺のこと、便利な辞書代わりとかにしか思ってないんじゃないかなー」
「そんなことありません! わたくしめはトレイン様を尊敬しています!」
「本当? 俺のこと好き?」
「はい! 大好きですトレイン様!!」
「ちょ!! トレインさん?!」
 どさくさにまぎれて問題発言が飛び込み、ライズは慌てたが、リィンはそれに気づかないほど必死だった。

 トレインの顔が完全に緩んで、デレっとしていた。
「ふふふ、そこまで言われたら教えるしかないなー。えっと、ここから……」
 トレインが言ったページを確認して、リィンはこぶしを振り上げて喜んだ。
「ありがとうトレイン様ー!! あなた様は天使だー!!」
「うんうん、ちゃんと勉強するんだよ、リィン」
 ニヤニヤしているトレインと、浮かれているリィンを見比べながら。

 ライズは、盛大なため息をついた。



 無事に宿題を提出できたリィンは、スキップをしそうな足取りだった。
「本当にトレイン様様よね! 何でも知ってるし、教え方も上手だし! まぁ、ちょっと悪い癖はあるけどね!」
 ライズは頭を抱えたかった。
「はぁ、あの人にも困ったものだ。リィンも、本から丸写しをして提出しただろう。あれでは、ちゃんと覚えられんぞ」
「別にいいじゃなーい。何はともあれ、提出できたんだから!」

 ライズは頭を抱えた。


**********


 学生達の他愛もない会話。靴が床を叩く音。演習場での魔術の爆破音。黒板とノートが文字によって埋まっていく音――。

 それらすべてが、一気に消える。

 しかし、リィンの目には、それは存在して見える。音を失っても、それは存在し続けている。
 無音の中にリィンは一人、取り残された孤独に襲われる。

 不意の出来事についていけなかった脳内が、ようやくことを理解しようと動き出す。
 それとともに、言いえない恐怖がリィンを包む。
 抵抗も、できない。

 脳が理解し、音が次第に取り戻される。
 同時に、体がわずかに震える。息が乱れ、軽く世界が揺れる。

 そんな状態に陥っているとは知らず、魔法薬の教師は、リィンを恐怖に貶める呪文を唱える。
「じゃ、昨日の課題の確認テストするぞー」

 おぼえて、ない。
 リィンは、泣きたくなった。



 そして、今日。
 リィンは、泣いた。

「うわああああああ!! 嘘! 嘘ォ?! まさかテストに出るとか、授業で出てないのにィー!!」
 テストが返され、すぐさま自室に戻ったリィンは、床に伏して泣いた。
 ライズはそれを見て、飲んでいた紅茶を置き、呆れた顔をした。
「落ち着けリィン。課題に出たんならテストに出てもおかしくないだろう」
「慰めになってないわよバカー!!」
「ああ、慰めているつもりはないからな。リィンが悪い。まる写しじゃなくて、ちゃんと理解をだな」
 リィンの前に正座をし、ライズはお説教の態勢に入る。

 しかしリィンは、三十五点と書かれた紙を握りしめて、叫んだ。
「そういう問題じゃないのよ! 百点満点のテストで、半分もいかなかったことに問題があるの!!」
「いつものことだろう」
「ぎゃふうっ!!」
 涙ながらの力説も、ライズはさらっと流す。リィンはそれに勢いを失ったが、すぐにこぶしを握り、気合いを入れなおす。
「そ、それだけじゃないわ……このテストは、と、と、トレインにヒントをもらって提出した課題のテストよ?!」
 握った拳が震えだす。それは、力の入れすぎなのか、それとも恐怖のためか。

 言われて、ようやくライズは理解した。
 普段ならば、点数自体はいつも通りなので、開き直ってどうとも思わなくなるだろう。しかし何故今回、リィンがこれほどまでに動揺しているのか。
 実はライズは、リィンがテストに関して、このように取り乱しているのを、何回か見たことがある。

 それ全てに、リィンの友人、トレイン・リウォーラが関わっていた。
 そしてその後リィンがどのような目に遭うか、思い出した。

 ライズの背中に、嫌な汗が流れる。
「そ、そうでした……さっきまで、テストの結果が悪かったリィンを、どうやっていじり倒そうか考えてすっかり忘れていました……。これは一大事じゃありませんか!!」
「くっ……前半に突っ込みたいが、そうよ、これは一大事なの! どうしよう、教えてくれた時、トレインいつにも増して上機嫌だったし……結果がこれとなると……」
 と、みるみる顔から赤みが消えていく。
 そして、テストを握りしめた拳が、震え始めた。
 それは間もなく、全身に転移する。

 リィンは震える体を抑えようとしたが、失敗した。
 そしてそれは、リィンの心を崩壊させていく。
 うっすらと、藍色の瞳がにじんで歪んでいく。
「殺される……」
 小さく、しかし切り裂かれるような悲痛な声で、リィンは言った。
 堰はとうとう決壊し、頬に一筋の線が描かれる。
「あたし、トレインに殺されるんだーっ!!」

 そして、冒頭に至るのだった。



「とにかく、どうにかしないと。下手したら私まで監督不行とか言われて被害に遭います!」
 むせび泣くリィンの背中を撫でつつ、ライズは拳をあげて宣言した。
「おのれ、やはり一番は自らの保身かぁ……!!」
 リィンは鼻をかみながら弟を睨んだ。しかし、それ以上の不満の声は抑えられる。
 なんて言ったって敵は、三学年のトップ2。対してライズはトップ3で、抵抗するには、ライズの協力が必要なのだ。

「とりあえず、この場を離れましょう。ここは危険です」
 ここはリィンの私室だ。トレインが来るとしたら、まっさきにここである。
 ライズは部屋の窓を開けた。リィンの部屋は三階にあるが、ライズにしてみれば大した高さではない。
「さ、リィン、行きますよ!」
「うん!」
 リィンを抱え、ライズは窓枠に足をかける。
 そして、それを蹴って外に飛び出し――

 ゴンッ!!
「「あだぁ!!」」

 リィンとライズは揃って、『何か』に激突した。
 その反動で、転がるように再び部屋の中に戻る。

 ライズは赤くなった額を押さえながら、自身達が出ようとした窓を注意深く見た。
 そこには、良く目をこらさなくては見えない壁があった。太陽の光を反射して、青白い光がきらめく。
「障壁……」
 ライズの全身に、嫌な汗がどっと噴き出た。
 リィンも起き上がって、その壁を見ている。ぼろぼろと泣いているのは、さっき額をぶつけたせいか、はたまたそれ以外の理由でか。問うことは愚かだ。わかりきっている。

 答えは、この障壁は、今からくる災厄が張ったものだからだ。

「この私が気付くことなく……なんてことだ」
 この分だと、逃げ場などない。囲まれているだろう。
 ライズは諦めて、ずるずるとへたり込んだ。
「ラ、ライズ! あんたが諦めたら、あたしどうすればいいのよぉー! あたしに死ねっていうのー?!」
「ごめんなさいリィン。あなたが死んだら私も後を追いますので勘弁してください」
「いやああああ?!」
 倒れた弟の隣で、姉は絶望の悲鳴を上げた。

 そこに。
「部屋の鍵かけないなんて、ライズ君がいるとはいえ不用心だよ、リィン」
 ふっと、リィンの左耳を、柔らかい風が撫でた。
 その感触――そして、その感触が何故したのかを理解し、リィンの背中に戦慄が走った。

 トレインはリィンの肩を後ろからしっかりとつかみ、まるで左耳に口づけを施すように自身の唇を近付けた。
「ね、リィン。鍵をかけ忘れたほど、慌てていたのかな。どうしてそこまで慌てていたんだい?」
 恋人に愛を囁くような、声。
 しかしそれは、リィンに愛ではなく、殺意を伝えているようにしか聞こえなかった。

 リィンの位置から、トレインの顔は見えない。視界の端に、その茶色い髪が見えるだけだ。
 きっと、微笑んでいる。恋人に愛を囁いているのだから。
「ねえリィン、聞いてる? 返事してよ」
「っ、は、はい?!」
 リィンの体は強張り、喉もひきつって、素っ頓狂な声が出ただけだった。

 トレインはリィンの返事を聞いて、さらに言葉を紡ぐ。
「ところでリィン。さっきの授業で返されたテスト。君のがチラっと見えたんだけど……」
 リィンは目の前に倒れている弟に、助けを求めるように視線を送った。
 しかし、弟は完全に床に突っ伏し、死んでいる。

 きっとそう、ライズは殺された。
「三十五点って、どういうこと?」
 この悪魔の、囁きに。

 そして今度は、自分の番――ッ!!

 リィンの中で、何かが切れた。
うああああああああああああああああ!!
 窮鼠猫を噛むと言わんばかりに、リィンは叫びながらトレインから逃れようとした。
 しかし。
「酷いよリィン」
 まるで蛇のようにトレインの手足がリィンの体に絡みつく。圧倒的な速さと技で、リィンは関節技を決められた。
「ちょ、痛い! いた、あだだだだ?!
「なんで復習しなかったんだい、リィン。やっぱり君は俺のことを、その場凌ぎの為の便利な歩く辞書くらいにしか見てなかったんだね。酷いよリィン」
「いやっ、トレイン、違、いだだだだ! はなっ、放してっ!」
 リィンは懇願するが、むしろトレインの技は、どんどんきつくなっていった。
「もう俺は君を信用しないよ、リィン。その三十五点は、俺を利用してラクしようとした、君の怠惰な心がいけないんだ」
 そう言って、トレインはパッと花のように笑った。
 しかしリィンには、それが花ではなく、むしろ食虫植物にすら見えた。

 リィンはその植物の罠に、はまってしまったのだ。
 もう、逃れられない。

 完全に脱力したことを確認して、トレインは技を解いて、さわやかな笑みを湛えて言った。
「んじゃ、リィン。今日は寝かせないからね?」
――ああ、うん。どうせ明日休みだしね。
 リィンは、床に突っ伏してさめざめと泣いた。


*****


「な、なんで私まで……」
 げっそりとやつれたライズは、涙ながらそう漏らした。
「ライズ君、歴史学がいまいちだったからね。あ、こら、リィン。寝るなー」
 そのライズの隣で眠りこけていたリィンに、トレインは関節技をかけた。
ぎゃああ!! 痛い痛いトレインごめんなさいぃぃぃ!!」
「まったく、まだ始まって五時間だよ? まだ夜も更けていないのに睡魔に負けるなんて……」
 確かに、まだ夜も始まったばかりであるが、もう開始から五時間も経ってるではないか!
 リィンは泣きたかった。リィン達が迎えたくなかった、最悪の事態に陥ったのだから。

 そう、トレイン主催、「ドキッ☆ 三人だけのお勉強会! コックリしたら即私刑!」が始まってしまったのだ。

 名付けたのはリィンだが、名の通り、ちょっと疲れてコックリしたら最後。
「きゅうっ……もう勘弁してトレイン!! 勉強ちゃんとするからぁー!!」
「目、覚めた? 今度はちゃんと集中して、問題解くんだよ?」
 トレインに速攻で、教育的指導という名の絞め技・関節技を喰らうのである。
 しかもお勉強している時のトレインは何故か無敵であり、ライズすらもこれから逃れられないのだ。
 ちょこちょこ間に休憩を入れているとはいえ、さすがにここまで勉強づくしだと、流石に集中力も切れてくる。
 もはや勉強というより、トレインに絞められていじめられているのではと思えてくる。

 しかしこの勉強会の真の恐ろしさは、トレインの集中力だった。
 トレイン自身が講義を行ったり、また自身も同じように勉強を行ったりとしているのに、うっかり船を漕ぐこともないし、あくびひとつ漏らさない。
 ついでに言うと、仕掛けてくる技の威力も衰えない。

「さ、ちょっと休憩しようか! そしたら今度は、確認テストでもやってみようか。実は前々から作ってたんだよねー」
 休憩と聞いて机に突っ伏したリィンは、思わず起き上がった。
「テスト?! そ、それって……」
「ん? 大丈夫、さっき勉強したところだから」
 トレインは、風すら起きそうなさわやかな笑みを浮かべて、言った。
「できるよ。ね?」

――できなかったらどうなるか、わかるよね?
 目がそう語っていた。


「あ、悪魔……悪魔があそこにいる……ま、魔族? トレインってもしかして魔族? むしろ魔王? ねえライズ、トレインって魔王じゃないでしょうね?」
「もう、何が何だか、どうでもよくなってきました……」
「ああ! ライズくん凄いよ! きっとそれはトランス状態になったんだ! 今なら何でも詰め込める!! 休憩やめて、さっきの歴史学の復習を……」
いやああああああッ! もう勘弁してええええ!! こンの勉強魔王ぉぉ――――!!!」

 まだ夜が浅い、その闇に。
 少女の悲鳴が、吸い込まれていった。

 夜はまだまだ、これからである――。



 

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